アリストテレス以後、長い停滞を続けていた遺伝学に大きな衝撃を与えたのが「進化論」の登場でした。 進化論の提唱者は、あまりにも有名なチャールズ・ダーウィンです。
彼は「自然選択」説とよばれる主張を行いました。 生物種の個体間の相違が、環境へより適応した個体を生み出すこととなり、環境適者は子孫を残す上で有利となるという考えです。
ダーウィンは進化を「ある予定された理想へ近づくための変化」(進歩)とは違うものであるとし、「偶然が支配する変化」すなわち「機械論的」なものとしました。
しかし、環境に有利な変異が蓄積されて進化に到るとするダーウィン進化論の不備は、遺伝の構造がわかっていないということでした。
ダーウィンが想像した遺伝機構では、ジェミュールという物質が重要な役割を担います。 ジェミュールはもともと生殖細胞に含まれ、体液によって全身をめぐることによって形質を伝えます。 そして親の獲得した形質をくわえて再び生殖細胞へと戻り、生殖が行われ子に受け継がれるというものです。 当然この説の裏づけが必要となります。
そこで動植物の育種に関する文献や、植物の交雑実験記録を大量に収集すると同時に、自らもハトや様々な植物をもちいての実験を行いました。
形質の、優劣・連続と不連続など、 重要なものを含む一定の認識には達してはいたものの、 結局、遺伝法則の一般化とよばれる次元まではたどり着けませんでした。
ダーウィンの成すことがかなわなかった遺伝法則の一般化に成功したのが、 学校教育でも必須の「メンデルの法則」で名高いグレゴール・ヨハン・メンデルです。
メンデルはチェコのブルノ(当時はオーストリア領)にある修道院の司祭でした。 農業の盛んな土地柄だったブルノで、彼は修道院長より、品種改良のため遺伝の研究をするよう命ぜられます。
エンドウマメを使っての研究は、1853年より開始されました。 その後、非常に有名な交配実験を68年まで続けたいわれます。研究発表は65年に行われましたが、 ほとんどまったく反響らしいものはなく、彼の論文は誰にも理解されませんでした。
当時最も有名な学者の一人であったダーウィンが喉から手が出るほど欲しがっていた「遺伝の法則」を、 田舎の修道僧が発見していたのです。 メンデルはもちろんダーウィンの存在は知っていましたが、彼に自身の研究成果を伝えようとはしませんでした。
研究内容からみれば、強く引き合ってよいような、同時代に生きた、片方は非常に有名な、もう片方は無名の天才は、ついに邂逅することはありませんでした。 「進化論」によって、教会を中心とする勢力から批難と悪罵を受けていたダーウィンとは、 修道僧メンデルにとって、近づこうと想像もしない人物だったのかもしれません。
その後、メンデルは1968年に修道院長となり、教会の仕事が多忙となったため、 次第に研究が困難となり、ついには継続を断念した。「メンデルの法則」は再発見の時を待ち、 彼の死後も埋もれたままとなります。
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